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金花小姐



生没年 ?~?
出身
父母
兄弟


特徴 金花小姐(もしくは金花娘子)と称す


解説
元末の混乱に乗じて、妖言をもって人々を惑わせた汝穎(河南江北行省汝寧府)の妖女。
最盛期には結構な勢力を誇っていたようで、後に朱元璋に仕える愈通海も最初この人物に仕えていたという。

コメント
以上は、『明実録』の記述を元に金花小姐を紹介したものであるが、他にも、『草木子』「三巻 克謹編」には、明玉珍や、大宋の田豊、天完の欧普祥、後の漢の丞相張必先等と並んで、天下を乱す賊の一人として、陝西(陝西行省)の金花娘子という人物が取り上げられている。この人物と金花小姐との関係は不明。

ただ、その呼称の類似性や、汝穎と陝西がそれ程離れた場所ではないことを考えれば、ひょっとすると金花小姐と金花娘子は、同一人物であるのかもしれない。

また、以下は金花小姐に関しての中文記事、参考までにリンクを張っておく。
金花小姐与仙人桥
# by ikurishi | 2006-11-07 15:33 | 人物


詹鼎
詹 セン
鼎 テイ
国器 コクキ
生没年 ?~1380?
出身 寧海(江浙行省台州路)
父母 ?・?
兄弟


特徴


解説
寧海の貧しい家に生まれる。
幼い頃から常児と異なった性質を持ち、学館で人の読書しているところを聴くことが大好きで、人々の前に出ては聴いて憶えた本の内容を暗誦していたという。
土地一番の大家である呉氏は、そんな詹鼎が将来は必ず立派な人間になると確信し、父親に「お子さんに読書をさせてみてはどうか」と促した。最初、父親はこの申し出を断ったが、学問に腐心する詹鼎の姿を見て、考えを改め、師をつけて読書させた。

一年後、詹鼎は師から大抵のことを学び終えると、今度は呉氏に無理を言って、その子どもたちに学問を教えている儒学者に師事した。
そして、数年もすると呉氏の子どもたち以上に師の学問を吸収。しかし、その儒学者が故郷に帰ってしまったため、もはや土地で詹鼎以上の教養を持つ人物はいなくなってしまい、郷里の人々からは「詹先生」と呼ばれるようになった。
しかし、詹鼎はそんなことで慢心する筈もなく、その後も王愚可のもとで春秋通説を学び、趙生という人物の試験の答案を代筆し、合格させたりしている。

至正八年(1348)、台州(江浙行省台州路)で方国珍が挙兵し、府を開いて士を募ったが、当地の知識人たちはこれを恐れて身を隠し、一歩も外に出歩こうとはしなかった。
詹鼎もまたその例に漏れず、じっと身を潜めていたが、たちまち方国珍に捕えられてしまい、府都事の官をさずけられた。

府都事となった詹鼎はここで清廉潔白につとめ、方国珍の弟が法を犯したときなどは、その妻から賄賂を渡され、今回の事は目を瞑るよう促されても、「天下に賢士を求めようとしている方氏(方国珍の一族)が、法を守らずしてどうする」と言って退けた。しかし、このためにその妻から怨みを買い、讒言を受けて一時牢に繋がれてしまった。
赦免された後、命を受けて上虞(江浙行省紹興路)に派遣される。上虞という土地は張士誠の支配する地域と境界を接しており、いつ戦闘が起こってもおかしくない状態であったが、上虞の官吏や軍人たちは緊張感に欠けた人間ばかりで、完全にだらけきっていた。そこで詹鼎は官吏や軍人たちが一堂に会する時と場を借りて、彼等の不奉公ぶりを責め、更にこれ以上怠慢を働くような者は斬首に処すと示した。するとその場にいた官吏や軍人たちは皆、忽ちすくみ上がってこれに跪き、更に無言で目をそらして、詹鼎に屈服した。

至正二十七年(1367)、方国珍は朱元璋の猛攻を受け、海上に逃れた。しかし、潔く降伏しなかったことが、朱元璋の怒りを買い、大軍を送り込まれてしまう。
完全に逃げ道を失ってしまった方国珍は、朱元璋に降伏を申し入れる書状を詹鼎に書かせ、これを息子の方関に持たせて朱元璋の元へと送った。
朱元璋は詹鼎の書いた降伏を申し入れる書状を読むと、いたくその内容に感激し、「誰が方氏を無道というだろうか、これ(詹鼎の書状)をもってその命をながらえさせるべきであろう」と言って、その罪を赦した。

その後、詹鼎は南京(江浙行省集慶路)に遷るも、なかなか用いられることが無かった為、意を決して万言を書して、これを直接朱元璋に献じた。朱元璋は馬を止めてこれを読み、その内容に感動し、丞相に命じて早速詹鼎に官を授けさせた。しかし、そのために当時左丞の地位にあった楊憲の妬みを買い、梁(河南江北行省汴梁路)や陝(陝西行省)の地に左遷される。

七年後、楊憲が失脚して誅されると、漸く南京に帰還する。しかし、中書尚が詹鼎に官を授けず、再び陝の地に遷そうとしたので、詹鼎は二度とあんなところはごめんだと、下っ端の役人となって何とか都に留まった。
ところが、時の丞相に気に入られ、「尚書の才」と称されると、漸く出世の糸口が見えてくる。その後間も無く、丞相の意とは反して詹鼎は河南行省の缺郎中となるが、半年後には(丞相の意向が関わってか)留守衛の経歴に任じられ、更に刑部郎中、刑部佐僚を歴任。丞相をして「刑部に詹鼎あらば、我に憂いなどない」と言わしめた。
実際の詹鼎の刑部での働きぶりはどうだったのかと言うと、寛仁を以って法を行ったため、嘗て上虞で官吏や軍人たちを怯えさせた威勢は影を潜めたものの、人々から「詹鼎様に罪を裁かれるのならば、甘んじてこれを受け、恨み言は言うまい」と言われるほど、信頼されていたらしい。

しかし、後に贈収賄事件に連座して処刑された。


一口メモ
元末明初を代表する知識人に宋濂という人物がいます。恵まれた環境とは決して言えない状況で、苦学して当代随一の儒者とまで言われるようになった人物です。
しかし、そんな宋濂でもその境遇の悲惨さを比べれば、詹鼎にはるかに劣るでしょう。例えば、宋濂が歳六にして、学び舎に入り、古典に触れていたのに対し、詹鼎は学び舎から漏れる人々の声を必死に聞き取って、自力で教養を深めざるを得なかったのです。
(誤解しないで欲しいのですが、ここで宋濂を引き合いに出したのは、彼を貶める為では決してなく、詹鼎という人物がこの時代でも稀有な生涯を送った人物であることを強調したかったためなのです。)

そして、この時代には詹鼎と同じように卑賤の身から、詹鼎以上に異例の大出世を遂げた人物がいます。そう、明の太祖 朱元璋です。
詹鼎のその魂を込めて記した万言の書が、朱元璋の心を二度も打ったのも、もしかしたら同じような境遇からくる、シンパシーを感じ取っていたからなのかもしれません。
# by ikurishi | 2006-10-13 02:05 | 人物


莫天祐
莫 バク
天祐 テンユウ

生没年 ?~1367
出身 無錫州(江蘇省)
父母 ?・?
兄弟


特徴 性は凶猛にして、勇力あり、人は称して莫老虎と為す


解説
無錫州の土豪で、元末の混乱に際し、至正十二年(1352)に衆を集め義兵を組織。張士誠から招聘されるも従わず、これに怒った張士誠の派遣した軍を破り、独立を保った。しかし、至正十七年(1357)、張士誠が元朝に降り、官爵を授かるとその配下となり、後に枢密院事にまで昇進する。

そして十年後の至正二十七年(1367)、朱元璋の軍が張士誠の蘇州を囲むと、張士誠配下の将軍たちが次々と朱元璋に降る中、徐達から潔く降伏するよう使者を送られるも、これを斬り殺し、一人抵抗を続けていた。
後、張士誠が敗れると、朱元璋配下の胡廷瑞の猛攻を受け、堪え切れなくなった無錫州の人々の代表である張翼という人物の説得を受け降伏。その後間も無くして、明の将兵を多く傷つけた罪で処刑された。
# by ikurishi | 2006-10-11 22:38 | 人物


脱脱
姓名 脱脱 トクト
大用 ダイヨウ
生没年 1314~1355
出身
父母 馬札児台(実父)、伯顔(伯父、養父)・?
兄弟 也先帖木児
哈刺章、三宝奴

特徴 頎然として(背が高くて)千百人中に出づ。器宏く識遠し、其の蘊(深さ)を測る莫し。


解説
蒙古人貴族の馬札児台の子として生まれたが、後に伯父の伯顔に引き取られ、その養子となる。また、幼い頃から弟の也先帖木児とともに婺州の儒学者 呉直方の教えを受けていた。
やや長ずると、人並みならぬ力を発揮し、弓一石(約70㎏)を軽々引いたという。

元統元年(1333)、順帝が即位。
至元元年(1335)、権臣 唐其勢が伯顔によって死に追い込まれると、唐其勢の党であった答里、刺刺等が兵を起こして都に攻め寄せてきたため、脱脱は精鋭を率いてこの討伐にあたり、尽くこれを捕えて順帝に献上した。
至元四年(1338)には御史大夫となり綱紀粛正に勤める。
更に同年、上都に北順する順帝に随行し、その道中に順帝が突然狩を行いたいと言い出したので、脱脱は「天子とは大臣とともに治道を求めることこそその責務であって、狩などはその限りでは御座いません」とこれを諌めた。

この頃、脱脱の義父 伯顔は宿敵唐其勢を殺したことにより、ますますその権勢を強め、宮中において絶対的な権勢を振っていた。対するに順帝は、その専横を忌々しく思っていたが、なかなかこれに口出しすることが出来ずにいたのである。
脱脱は養父である伯顔に恩義を感じてはいたが、もし義父が失脚してしまえば、その親族である自身の身も危うくなるだろうと危惧を抱いていた。
そこで脱脱は幼少以来、学問の師として慕い続けている名儒 呉直方に自分の胸の内を明かした。すると呉直方は「『大義は親を滅す』と言います。大夫というものは国家への忠節を第一の義としなければなりません。相手が伯父といっても悩むことなどありません。」と、伯顔打倒を建言し、脱脱もまたこの時、義父を裏切る決意を固めた。

そして至元六年(1340)、忠臣 世傑班、阿魯、そして順帝等の協力を得て、二度の失敗を重ねつつも、遂に伯顔が皇太子とともに狩に出た隙を突いてクーデターを起こし、伯顔を追放することに成功する。
伯顔が追放され、早速宰相にあたる中書右丞相に、脱脱の実父である馬札児台が任じられた(勿論、宰相の権限は完全に脱脱が掌握している)。

至正元年(1341)、馬札児台の辞任を受け、脱脱が正式に宰相に就任し、伯顔が新たに行った蒙古人優位の制度を旧制に改め(科挙の復活など)、また、至正三年(1343)には、『宋史』『遼史』『金史』の編纂を開始する。

至正四年(1344)、辞位を願い出、一時元朝を去る。(讒言を受けたためと思われる)
至正七年(1347)、馬札児台が謗りを受け、甘粛に左遷された為、脱脱もまたこれに従う。しかし、心労や疲労がたたってか馬札児台はその年の内に亡くなってしまい、結局脱脱は都へと帰還した。

至正九年(1349)、脱脱は再び宰相職に復帰する。
至正十年(1350)、元朝の経済破綻を打開する為、吏部尚書 偰哲篤の献策を受けて、新紙幣である至正交鈔を発行するが失敗、インフレを助長してしまう。
至正十一年(1351)、長らく放置されていた黄河の治水工事に着手し、工事に意欲をみせていた賈魯を工部尚書に任じる。結果、治水工事自体は大成功に終わったが、ただでさえ疲弊しきっていた民力を工事に多く投入してしまった為、民衆の不満が爆発し、紅巾の乱が起こる一つの要因になってしまった。

同年五月、紅巾の乱が勃発。脱脱は賊軍が各地で快進撃を続けると知るや、即座に弟の也先帖木児に十余万の兵を授けて、これの討伐に向わせた。
数の上で有利であった為か、初戦は元朝軍の勝利に終わったが、その後、夜襲を受けて軍は大混乱。也千帖木児は軍を棄てほうほうの体で汴梁へ逃亡。その後、散じた兵を何とか集めて朱仙鎮に屯した。
間も無く朝廷の命で也先帖木児は討伐軍の司令官を解任され、都に召喚されて十二人の監察御史たちから弾劾されてしまった。しかし、脱脱はこれに怒り、弟を責めた御史たちを次々と左遷してしまう。これによって、朝廷に敢えて脱脱に逆らおうとする人物はいなくなってしまった。

至正十二年(1352)、脱脱は弟の失敗を挽回すべく、今度は自ら兵を率いて紅巾軍の討伐に向かう。この時攻撃の対象としたのは、劉福通と協力関係にあった、芝麻李こと李二の率いる徐州紅巾軍であった。
脱脱は募兵によって二万の兵卒を集め、元々率いていた将兵とともに出撃。九日の行軍で徐州に達すると、早速西門からこれを攻めた。李二等は城を出て迎え撃とうとしてきたので、脱脱は鉄翎箭(鉄製の矢を発射する武器)を使用して敵軍に大損害を与え、更に敵軍がひるんだ所を奮撃して大勝利を挙げた。
明くる日も脱脱は徐州に総攻撃を仕掛けた。そして、この猛攻を敵軍は支えることが出来ず、遂に李二等は逃走(李二はその後間も無く死亡)。脱脱等は大勝利を挙げるが、戦勝の興奮冷めやらぬ元の兵士たちは、徐州城になだれ込み、場内の人間を無差別に殺害し、皆殺しにしてしまう。

至正十四年(1354)、今度は高郵に拠り、周王を自称していた張士誠をその討伐の目標に定めた。
出陣に際して、順帝は脱脱に諸王に諸郡、そして西審と西域の全軍の指揮権を与え、これによって脱脱は、「旌旗は千里を累し、金鼓は野を震わす。出師の盛んなるは、未だこれに過ぐる者あらず」という、その数百万ともいわれる凄まじい大軍勢を指揮下に入れることとなった。
高郵への道中、脱脱は闕里で孔子を、雛県で孟子を祀る。
そして十一月、脱脱率いる大軍勢が高郵に至り、先端が開かれると圧倒的な兵力にものをいわせて連戦連勝を続け、兵を分けて六合を攻略し、張士誠を降伏寸前にまで追い詰めた。
しかし、脱脱の留守中に、都で脱脱の政敵である哈麻が順帝に脱脱を讒言してしまったため、これを真に受けた順帝が脱脱の司令官の職を解いてしまう。

その後、軍を後任の将軍に任せた(後任の将軍たちは脱脱の失脚により動揺する大軍勢を統制することが出来ず、軍団は解体してしまい、その一部は紅巾軍などの反乱軍に参加したとも言われている)脱脱は都に帰還し、ここで一族ともども弾劾され、脱脱やその弟 也先帖木児、それに脱脱の息子たちは尽く左遷されてしまった。
その後脱脱は左遷先である雲南の大理に向う道中、毒殺されこの世を去った。


一口メモ
脱脱の義父であり、伯父の伯顔は典型的な蒙古史上主義者で、また漢人嫌いでも知られていた。そんな伯顔が順帝に対しこんなことを語ったことがあった。
「脱脱は私の義理の息子ではありますが、漢人を助けることばかり考えております。」
実際、脱脱は後に多くの漢人を保護、重用して、元朝の漢化を図ることになる。

大の漢人嫌いである伯顔に育てられた脱脱であったが、脱脱は義父よりも、幼い頃から自身の学問の師となっていた儒学者の呉直方に大きな影響を受けていた。
脱脱の行跡や業績からも、その影響が見て取れる。例えば先述した狩をしたがる順帝を諌めた一幕にしても、如何にも儒学者臭い説教で順帝を諭しているし、科挙の復活や正史の編纂など、伝統的な中華王朝を髣髴とさせる政策を次々と打ち出している。

儒学者の呉直方によって教育された為、脱脱は蒙古人でありながら、元朝の漢化こそ崩壊しかけた体制を建て直す、唯一の手段であると信じて疑わなかったのであろう。勿論、先に伯顔の打ち出した蒙古人優位の政策が、元朝の弱体化に拍車をかけた事実も、その考えに少なからず影響を与えていたと思われる。
# by ikurishi | 2006-10-09 01:05 | 人物


葉琛
葉 ショウ
琛 チン
景淵 ケイエン
生没年 ?~1362
出身 麗水
父母
兄弟
永道

特徴 博学にして才藻(詩文の才能)有り。


解説
元末の混乱に際して、義兵を組織して賊軍に対抗していたことから処州の元の守将石抹宜孫に見出され、元軍に参加。主に作戦の立案を手掛けて、山寇を征伐する。

しかし、至正十九年(1359)、処州に朱元璋の軍が侵攻すると、石抹宜孫等とともに防戦するが敗北。建寧に逃れた。

至正二十年(1360)、朱元璋に招かれ、石抹宜孫の幕下で戦っていた頃の同僚である劉基と章溢、そして金華の名儒 宋濂とともに朱元璋に帰順。
その後洪都に遷り、守将の鄧愈を補佐する。

至正二十二年(1362)、陳友諒軍から投降した祝宗、康泰が謀反を起こし、洪都を占領。やっとの思いで鄧愈を逃がす事は出来たが、自身は捕えられてしまう。
そして葉琛は、叛将らに屈することなくその非を責め続けたため、殺害された。


一口メモ
劉基、宋濂、章溢と並んで、浙東の四先生と称される今回紹介した葉琛であるが、史書において語られる彼の活躍は、他の三名に比して圧倒的に少ない。
朱元璋に帰順した後の記述が少ないのは、早逝した人物なので納得出来ないこともないが、他の三名は浙東の四先生と呼ばれて納得できるだけの業績を朱元璋に帰順する以前に挙げたことが史書にこと細かく記されているのに対し、これに類する記述でさえも、葉琛の場合は他の三名と比べると極端に少ない。

葉琛には悪いが、これでは劉基、宋濂、章溢とともに朱元璋に帰順したという理由だけで、この三名と同格に扱われたのではないか、換言すれば、葉琛という人物は浙東の四先生と呼ばれるほどの人物ではなかったのではないかと勘繰ってしまう。
# by ikurishi | 2006-10-08 01:34 | 人物


花雲
花 カ
雲 ウン

生没年 1322~1360
出身 懐遠(安徽省)
父母 ?・張氏
兄弟
花煒
郜氏
特徴 (容)貌は偉にして黒く、驍勇絶人。異名は黒将軍(もしくは黒先鋒)。


解説
朱元璋の起兵に従った二十四人衆の一人。
至正十三年(1353)、濠州において剣を携え朱元璋に謁し、その才を評価されて幕下に加わり、以後、兵を率いて到る所で戦勝を挙げる。特に滁州の攻略においては、先鋒として数騎を従え、数千の敵を相手に蛮勇を振るった為、敵の将兵から黒将軍と呼ばれて恐れられたという。

そして、和州(1355)、太平、集慶の攻略(1356)に参加し、いずれも大功を挙げる。
更に、鎮江、丹陽、丹徒、金檀を攻めて、これに全て勝つ。
また、馬太沙の辺りで数百の賊に道をさえぎられた事があったが、この時には三日戦い続け、遂に賊を尽く捕えたという。

至正十七年(1357)、常州の攻略に功を挙げ、その後牛塘営を守る。
朱元璋が太平にて行枢密院を設置すると、その院判となる。
更に常熱の攻略に参加し、ここでは万余の兵を捕えた。

命を受けて寧国に赴き、群盗の征伐に着手。自ら矛を振って千百の首級をあげる。そしてこの間、その身に一本の矢も受けることは無かったという。
その後、あらかた賊の討伐を終えると太平に帰還する。

至正二十年(1360)、陳友諒が大軍を以って太平に攻め寄せてきたので、朱文遜、許援、王鼎とともにこれを迎え撃った。
花雲等は必死に防戦するも、まず朱文遜が戦死し、その後三日間にわたって奮戦したが、遂に太平は陳友諒の手に落ちる。
許援、王鼎とともに陳友諒に捕えられた花雲は、最初縄で縛り付けられるも、身を震わせて縄を裂き、敵兵の剣を奪って五、六人を斬り伏せ、更に陳友諒に対して「貴様などわが君の敵ではない、命が惜しくば降伏せよ」と罵った。
花雲は怒り心頭に達した陳友諒に再び捕えられると、船の帆柱に縛りつけられ、無数の矢をその身に受けた。しかし、針鼠のようになってもなお、絶息するまで花雲は陳友諒を罵ることを止めなかったという。
許援、王鼎もまた陳友諒を罵り続けて死んだ。

朱元璋は呉王に即位すると、花雲を東丘郡侯に追封し、許援、王鼎らとともにその忠を称えて忠臣廟に祀った。


一口メモ
おそらくはこの時代、花雲ほどその武勇を称えられた人物はいない。
史書には「万人に敵す」とその武威を評されているが、彼に限ってはあながち誇張と言い切れないであろう。
# by ikurishi | 2006-10-08 00:25 | 人物


丁普郎
丁 テイ
普郎 フロウ

生没年 ?~1363
出身
父母 ?・?
兄弟


特徴


解説
彭瑩玉の弟子の一人で、至正十一年(1351)に徐壽輝の天完軍に参加し、至正十二年(1352)には徐明遠とともに漢陽、興国を陥れるなどの功を挙げる。

至正二十年(1360)、陳友諒が漢皇帝を自称し徐壽輝を殺すと、一時的にこの勢力に所属するものの、あまり陳友諒のことを快く思っていなかったようで、小孤山の守備を任されていたが、間も無く傅友徳とともに朱元璋に投降。
そして、至正二十三年(1363)、鄱陽湖の戦いに朱元璋配下の将として参加し、最大の激戦となった開戦二日目の七月二十二日、奮戦の末、全身に十余の傷を受けて首を斬りおとされる。しかし、絶命してなお直立の姿勢を保ち続けた為、陳友諒の軍勢を大いに奮えあがらせたという。

後に、朱元璋から済陽郡公に封じられた。
# by ikurishi | 2006-10-03 19:02 | 人物


韓氏
韓 カン


生没年 ?~?
出身 保寧(四川)
父母 ?・?
兄弟

尹氏
特徴


解説
元末、明玉珍が蜀にて自立した勢力を築くと、韓氏は乱暴な兵士たちに貞操を奪われることを恐れ、男装して日々を過ごすようになった。

男として生活し、これで貞操は守れると安心しきっていた韓氏であったが、思いもよらない出来事が彼女の身に降りかかった。何と、女性でありながら兵士として徴発されてしまったのだ。
自分が女性であると知られてしまえば、忽ち粗野な軍人たちに操を奪われてしまうだろうと考えた韓氏は、自分が女性であることをひた隠しにし、明玉珍配下の“男性”兵卒として何と七年間も各地を転戦し続けた。この間、同僚の兵士たちは誰一人として彼女が女性であることに気が付かなかったという。

後、明玉珍の雲南征伐に従い、雲南からの帰還の道中、たまたま韓氏はその叔父と出会う。韓氏から事情を聞いた叔父は、姪のために金を軍隊に支払って軍隊から解放させた。
この時、韓氏が男装を解くと、同僚の兵士たちは韓氏が女性であったことに初めて気付き、一様に驚いたという。

叔父とともに成都に帰郷した韓氏は洪武四年(1371)に尹氏に嫁ぎ、“女性”として余生を過ごした。また、成都の人々は韓氏を称えて韓貞女と呼んだという。


一口メモ
以上紹介した韓氏の生涯は、一見、笑い話のように聞こえるかもしれないが、一方でこの話は、男装でもしなければ女性はまともに生きてはいけないという、乱世の悲惨な実情を窺い知る事も出来る良い材料にもなっている。
# by ikurishi | 2006-10-02 23:31 | 人物


丁月蛾
丁 テイ
月蛾 ゲツガ

生没年 ?~1360
出身 武昌(湖北)
父母 職馬禄丁・?
兄弟 丁鶴年

葛通甫
特徴


解説
イスラム教徒の西域人(色目人)にして元の高官である職場禄丁の娘で、幼い頃からその聡明さを発揮して諸兄から学問を学び、弟の丁鶴年の個人教師にもなっていた。
長じて蕪湖の葛通甫のもとに嫁ぎ、ここでも兄嫁の葛盧等に学問を教授していた。

至正二十年(1360)に陳友諒の兵が近づいてきた為、太平に避難しようという葛盧に従い、蕪湖から退去しようとするも、間に合わず陳友諒の攻撃が開始され、遂に蕪湖は落城。
月蛾は賊に節を奪われるぐらいならと幼女を抱いて入水。続けて九人の女性がこれに従い、次々と水中に身を投じた。
彼女等の死体は七日間浮かび上がることは無く、漸く浮かび上がったその姿はまさに生けるが如しであったという。
蕪湖の人々は月蛾はじめ十人の節婦の死を悼み、葛家の南に墓を築いて十人を埋葬。墓は十女墓と名づけられた。
# by ikurishi | 2006-10-02 22:03 | 人物


田元震
田 デン(熊)
元震 ゲンシン

生没年 ?~?
出身
父母 熊天瑞(養父)・?
兄弟


特徴 善戦で有名。


解説
鄱陽湖の戦いの後、朱元璋配下の常遇春が熊天瑞の拠点である贛州を攻めてくると、元震は敵軍の様子を探りに斥候に出た。 この時、常遇春もまた数騎を率いて自陣から離れて敵城の様子を窺っていた。 そして、敵陣に近づいた元震は常遇春と遭遇。 初め、元震は敵の物見が常遇春と気が付かなかったが、 常遇春が自陣に帰還しようとした時、漸くそれと気付き、単騎でこれに襲い掛かった。 善戦で知られる両雄の対決は全くの互角で、結局この場で決着がつくことは無かった。

その後、熊天瑞が朱元璋に降伏すると、元震もまた義父に従い投降。 先述の戦いで元震の武勇に惚れ込んでいた常遇春は早速これを推薦し、元震は指揮使の官を賜った。

さらに後、熊天瑞が朱元璋によって処刑されると、元震は姓を本姓である田に改めたという。
# by ikurishi | 2006-10-02 15:42 | 人物

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メジャーからマイナーまで、中国は元末明初の戦乱期に活躍した人物たちを紹介する
by ikurishi
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